のぶちゃんは、くりくりっとした大きな瞳の男の子です。現在45歳の私の二男と同い年
でした。今でも私の中ののぶちゃんは、少年の日の のぶちゃんのままです。
私の二男は、妊娠7か月の時、突然の早期破水のため重度の仮死状態で生まれました。
未熟児室の箱の中でようやく心臓が動き出しました。
同じころに生まれた子供たちに比べ、ゆっくりではありましたが、彼なりの成長を
重ね、小学校に入学するころには何とかほかの子供たちに交じってサッカーチームの
一員になれました。感謝の思いは今でも言葉にできません。
市民病院小児病棟への訪問ボランティアの話があったのは、ちょうどその頃でした。子供の
病気や、障害でつらい思いをするお母さんたちのことはとても他人事とは思えませんでした。
当時、病院小児科の中に院内学級が置かれ、小中学校の分校として認められていました。長期
入院の子や、入退院を繰り返す子たちのためです。その中に筋ジストロフィー症の、のぶちゃん
がいました。小学校1年生でした。
のぶちゃんは自分で車いすを器用に動かして、病室やプレイルームや、ナースステーションを
自由に行き来していました。毎週木曜の午後は私たちと、絵本の読み聞かせや、工作、季節
の行事に参加するのを楽しみにしていました。
その内、のぶちゃんはいつの間にか一人では車いすを動かせなくなってしまいました。でも大
きい瞳と大きな声は変わりませんでした。
のぶちゃんはだんだん一人では食事ができなくなりました。看護婦さんの中にはわざとのぶ
ちゃんをこまらせるようなことを言う人もいます。
「のぶちゃん、ご飯の時お母さんを呼んでよ。こっちは忙しいんだからね。」
そんな時、のぶちゃんは決まってこう言います。「弟がいるからお母さん無理だよ」
のぶちゃんの下には妹や幼い弟がいるらしく、忙しいお母さんにはなかなか会えません。
そのお母さんを、いつもそんな風にかばっていたのぶちゃんでした。
そのうちのぶちゃんは病室から出ることもできなくなりました。でも相変わらず
大きな声で、「まちさーん」、「まちさーん」と呼んでくれます。
私たちが作る折り紙細工や工作、季節の行事のお土産を楽しみにしているのぶちゃんは、
いつも幼い弟の分もせがみます。兄として弟への精いっぱいの気配りを感じました。
同級生が高校1年になった年、のぶちゃんは、小児科医長の広瀬先生の特別措置でそのまま
小児病棟にいられることとなりました。
その年の秋、のぶちゃんは個室で点滴の管につながれていました。その日のイベントの
「七五三」の千歳あめの袋を渡すと、いつものように「まちさん、弟の分もちょうだい」
と、そこだけ自由に動く、くりくりっとした瞳をこちらに向けました。
・・・・・・それがのぶちゃんとのお別れでした。
いつも「まちさーん」、と待っていてくれたのぶちゃんの声が聞こえなくなって間もなく
病児たちとの10年間の活動に終止符を打ち、保育の現場に勤務するようになりました。
40年ほど前の話ですが、のぶちゃんから教わったことはたくさんあります。
自分がいつも動けるのは、「待ってる人がいてくれるからこそ」だと教えてくれたのも
のぶちゃんでした。